2025年12月17日水曜日

フィリピン慰霊の旅3ー8(最終日)

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今日はこの慰霊の旅の最終日。
午後のフライトでマニラを発ち日本へ戻る。

午前中、時間が空いたので、マニラ大聖堂に立ち寄った。

マニラ大聖堂は、先の大戦で破壊されたが、日本からセメント約6万俵が贈られて、復興に寄与した。
大聖堂外壁左手に、この事が書かれた銘板がかけられている。




(↑高山右近像)


大聖堂前の広場に立っているカルロス4世(King Carlos IV)銅像。
(↑カルロス4世 スペインスペイン国王像)
同国王は、1800年代初頭、当時スペインの植民地だったフィリピンで天然痘が流行した際、カルロス4世は大量の天然痘ワクチンをフィリピンへ送り、この人道的な支援に対する感謝の印として、1824年にこの像が建てられたらしい。

その後、14:45マニラ発のフライトで戻った。
成田到着が夜だったので、東京で一泊する。

これで、今回のフィリピン慰霊の旅は終わりです。

2025年12月16日火曜日

フィリピン慰霊の旅3ー7

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今日はカリラヤ(ルソン島南部)の比島戦没者の碑へ行き、今回参加者の全戦没者追悼式を行った。

カラリア迄は遠い。
マニラからの距離は150㎞位だが、道路が混み合うので3時間以上かかる。



(↑バイ湖の東側 青い点がカリラヤ)
我々は、11時前に到着。
今回参加した遺族は92名で、全員が揃った11時過ぎから式典が始まった。

式典中は写真撮影不可。

1時間ほどで式典終了。



マニラへ戻る途中のGSで。
ガソリン価格は日本と大差ない。

戻る途中のマニラ湾の夕日。

マニラ空港の向こうはマニラ湾。

ホテル(ザ・ヘリテージ)に戻り、午後6時から懇親会が始まる。



民族舞踊など出し物もあり、

私も参加した。

今日はここまで。

明日は、午後の便で日本へ戻る。


明日のBlogへ続く


 

2025年12月15日月曜日

フィリピン慰霊の旅3ー6

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今日は移動日。
カバナツアンからマニラへ戻る。

途中で、小学校へ寄って、友好親善行事がある。

小学校はカバナツアンの小さな小学校(Bitas 小学校)だった。


学校訪問の目的は、友好親善で、各自が日本から持参した学用品などプレゼントを渡して、その後、児童と一緒に遊ぶことになる。

児童が校庭に集まってくれ、歓迎を受ける。


縄跳びで遊んだが、フィリピンではあまり行われてないらしい。
だが、子供たちは直ぐに馴染んで、大はしゃぎ。

我々も、十分楽しませてもらった。
(↑画像をクリックすると拡大します)


マニラは雨だった。

市内観光を諦め、午後3時過ぎにホテルへ。
ホテルは四つ星のザ・ヘリテージ・ホテル。



ソラノのホテルはシャワーのお湯が出ず、水シャワーを浴びていたが、こちらは大丈夫だろう。

マニラ市内はジャパニーズレストランもたくさんあって、今夜は久しぶりに日本の味を堪能した。



後、天ぷらや煮魚なども出たが、写真を撮るのを忘れた。

今日はここまで。

2025年12月14日日曜日

フィリピン慰霊の旅3ー5

今日は慰霊三日目。

今回、参加した遺族は8名で7柱の慰霊を行うが、昨日までに6柱が終わったので、今日は1柱のみ。

戦没地はソラノからカバナツアンの途中にあり、前回の慰霊の旅でも行った場所。

この地は、北進する米軍戦車を迎え撃った場所。
残念ながら、物量に勝る米軍に歯が立たず、日本兵はタコ壺から爆弾を抱えて、米軍戦車の下に飛び込み自爆した場所。



九死に一生を得た元日本軍兵士が建立した碑が幾つもある。

その碑の前で慰霊祭をした。


途中、雨が降り出す天気だったが、大雨にならず、なんとか持ちこたえて、慰霊祭を終えた。

この後、カバナツアンへ戻る。





2025年12月13日土曜日

フィリピン慰霊の旅3ー4

今日は4柱の慰霊を行う。

ソラノのホテルを出て、バスで北上する。
目的地はキアンガン。


キアンガン(Kiangan)のHational Shrineは記念碑や博物館のある公園の様な所。

この公園の少し下で山下将軍が投降した。

今回の慰霊祭は、現地の人が呼ぶShrineで行ったが、我々にはそうは見えなかった。




時間が余ったので、前にある博物館へ。

綿織物が主な展示品。



昔の人達の暮らしぶりが良く解る。

山下将軍降伏の地。昭和20年9月2日投降された。
(↑小学校の横手)
右上の建物は、当時の写真など展示してある。
(↑壁に刻まれてあるのは米兵の戦死者)



午後3時ごろホテルに戻り、後はゆっくりした。