2025年3月15日土曜日

フィッシングメール


フィッシングメールが良く届く。

今回は分かり易いメールだった。
何故かと言えば、我が家とは無関係の相手から来たメールだった。

◆東京ガスから

(画像をクリックすると拡大します)
東京ガスの供給エリア内であれば騙されるが、関西圏に送ったらあかんやろ!

◆アメックスから

(画像をクリックすると拡大します)
過去、アメックスを使っていたが、ヨーロッパでは使えない所もあり、付帯のプライオリティパスもイマイチだったので解約した。

”ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たる”かも知れんが、騙される人が居るんやなぁ。



2025年3月14日金曜日

分蜂集合板を作り、設置した


日本蜜蜂は、桜の花が終わる頃分蜂すると言われているので、ソロソロそのシーズンに入る。

分蜂すると、蜂たちは近くの樹の幹に蜂の球を作る。
何故、蜂球を作ると言えば、分蜂群は未だ新入居先が決まってなく、一時待機中の状態。
つまり、探索バチが新居先の情報を持ち帰るのを、蜂球を作って待っている状態。
其の時、蜂球を捕獲して新しい巣箱に強制入居してもらう。
居着いてくれたら、一群捕獲で目出度し目出度しとなる。

蜂球を捕獲するには、手頃な処(手が届く場所)に作って無ければ、捕獲できない。
従って、容易に捕獲できる処に分蜂集合板を掲げる。

先ず、分蜂集合板を作る。
自然木が理想だが、自然木の皮は容易に手に入らないので、人口品で代用した、
代用品は”人口杉皮”。ヤシの繊維出来ている。


ラワン合板に張り付け、表面に蜜蝋を塗った。


巣箱近くの樹に掲げた。


集合板は約15度の角度で設置が良いらしいので、その通りに掲げたが、さてさて上手くゆくか、否か、もうすぐ結果がでる。



2025年3月13日木曜日

待ち受け巣箱を設置した


今週になり、気温が上げって来たので、蜂たちの動きも活発になってきた。


日本蜜蜂の分蜂は”桜の花が終わる頃”と言われているので、ソロソロその用意をしなければならない。

用意は、待ち受け巣箱設置と、分蜂集合板の設置。

今日は、待ち受け巣箱を設置した。

この巣箱は5年前に作った巣箱
5組作ってあった内の一つ。

設置中に、塗った蜜蝋に引き付けられた蜂たちが数匹寄って来たが、探索バチではなさそう。

金稜辺が咲いたら、近くに置いて入居を目指す予定。



2025年3月6日木曜日

日本蜜蜂の巣箱を追加


日本蜜蜂の巣箱作りを始めた。

3月に入ってからも寒い日が続き、巣箱作りが延び延びになっていたが、そろそろ蜜蜂の活動(分蜂)期が迫って来たので、重い腰を上げたもの。

材料は既に買い求め、道具(スライド丸ノコ)も昨年末に購入済

作り終えたのは、重箱式巣箱が12個。


底板、天板は2組。

これで、古い巣箱と合わせて、合計7組(全4段重ね)になった。



まあ・・・7組あれば、今季分蜂して飼育群数が増えても何とかなりそう。

今月末には分蜂が始まるので、分蜂集合板も作り、セットしなくてはならない。



2025年2月28日金曜日

フィリピン慰霊の旅2-10

昨日のBlogへ戻る

今日は移動日。
14:50マニラ空港発ANA便で羽田へ戻る。

午前中、時間に余裕があるので、少しだけ観光。
マニラ市内のリサール公園へ寄り道。





ホセ=リサール Hose Rizal 1861~1896 はフィリピン独立運動の初期の指導者。
フィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的英雄(Héroe Nacional)」と称される。


マニラ空港は空いていた。



イミグレ、手荷物検査と順調に進み、T3の4階にあるプライオリティパスラウンジで一休み。

全日空だけあって、食事は日本人向け。
フィリピンでは長粒子米のパサパサご飯で、それに比べると美味しい。


羽田到着が午後8時過ぎだったので、今夜は東京泊まり。

今回のフィリピン慰霊の旅は終わった。
国(厚生労働省)主催のため無宗教で行い、供物などはそれなりの物が祭られていたが、進行は至って幼稚。
合同慰霊祭で、厚生労働省の役人が献花を参拝者に手渡したが、間違っていた。
通常参拝者は、左手で花を、右手で茎を持つよう手渡すが、逆だった。
出発前にちゃんと教育していない。
役人の慰霊巡拝に対するいい加減な取り組み方が、これで良く分かる。

個別慰霊祭でも進行は幼稚で腹立たしい限り。

明日は、東京にある叔父の墓参りを済ませてから神戸へ戻る。

2025年2月27日木曜日

フィリピン慰霊の旅2-9

昨日のBlogへ戻る

今日は、カラリアにある比島戦没者の碑にお参りする。


交通事情が悪く、片道4時間かかる。
(画像をクリックすると拡大します)

11時頃到着、
慰霊祭会場まで少し歩く。




先発隊(厚労省)が式典会場を整えてくれていた。



兵庫県から2名参加した。
(背後の塀は”畳”をデザインしたもの↑)
(兵隊さんは畳の上で死にたかったろうとの配慮らしい)

式典は、至って簡素で無宗教。
役人、代表の型通りの挨拶の後、全員の献花だけで終わった。

式典後、持参した灯明、線香を供え、念仏を声に出し唱えた。

今回の団員は”甥”や”姪”が過半を占め、私の様な”戦没者の子”は少数派。
当然ながら、父の居ない家庭に育った”子”と、両親の元で育った”甥、姪”とは根本的に違う感覚がある。
”甥、姪”は写真撮影などに夢中になるが、私は仏式でしっかりお参りした。


今回の慰霊団の行事は全て終了した。


明日のBlogへ続く



2025年2月26日水曜日

フィリピン慰霊の旅2-8

昨日のBlogへ戻る

今日は1柱の慰霊祭。場所はマニラ市内。

(画像をクリックすると拡大します)

”バルアルテ・デ・サンディエゴ”(Baluarte de San Diego)の芝生広場をお借りして慰霊祭は行われた。




この柱の死亡時の情報は、良く分からないらしい。
マニラ市内の病院で戦病死されたらしいが、それ以上の事が分からない。
今回は、この場所で慰霊祭を行うことになった。

これで、全遺族の慰霊祭は終わった。

◇ここ、”バルアルテ・デ・サンディエゴ”(Baluarte de San Diego)は、フィリピン・マニラにある石造りの要塞で、日本語では「サンディエゴ堡塁」とも呼ばれている。マニラで最も古い要塞のひとつで、マニラの歴史を知る上で重要な場所らしい。

式典後、同堡塁を見学。






近くのマニラ大聖堂へ

(↑スペイン国王 カルロス4世)
戦後、大聖堂の復興に日本国民から浄財を集め、セメント6万袋を寄贈した時の感謝の言葉。

神奈川県知事 内山 岩太郎氏の発案だったらしい。

大聖堂内部

(↑高山右近像)




昼食後、ベイエリアのショッピングモールへ
(↑↓画像をクリックすると拡大します)

大きなモールだった。
屋上にはサッカー場やアイススケートリンクもある。

スーパーマーケットの野菜売り場

(↓白菜:約180円)
野菜は各単位ごとにラッピングされていた。
日本より、衛生的!!!
(↑トウモロコシ:約200円)
(↑人参:約120~180円
(↑きゅうり:約150円)
ラッピングしているのは、腸チフス、細菌性及びアメーバ赤痢、A型肝炎. 等が広範に発生したりするので、安全対策らしい。


明日のBlogへ続く