2011年6月27日月曜日

ブルーベリーが熟れた


今年もブルーベリーのシーズンがやってきた。

2日ほど収穫しなかったので、良く熟れてきた。


冬、寒肥の施し方を失敗したので、今年はダメかなぁ・・・と思っていたが、結構生っている。
ここのブルーベリーは、別の場所から持って来たので種類はわからない。樹齢は20年くらいになる。

ブルーベリーは受粉樹が要るので2種類を混植しているが、写真の樹は実が大きく、早く熟れる。しかし、味は大味。
収穫は毎日できるので、しばらくはブルーベリーがデザートになる。



2011年6月15日水曜日

ウリ坊! お帰りはこちら から!


ようやく ウリ坊たちがお帰りになった!

いや、「お帰りになった」という表現は正しくない。
ウリ坊は、ここで生まれたのだから、「引っ越した」という表現のほうが正しいのだろう。

父親と思われる一家がウリ坊たちを迎えに現れた。
堂々としており、家長としての風格がある。

ウリ坊は、まだここから出たことがない。従って、父親の顔も知らない。


無心に遊ぶウリ坊と母親。

柵の外から、早くこちらにおいで と言うような顔で出るのを促している。
ようやく、出て行った。

すぐに柵(トタン板)を閉めたが、しばらくは、もう一度入りたいのか、柵の外から入り口を探していた。

毎年、2~4匹のウリ坊が誕生しているので、イノシシが増えて困っている。駆除して欲しいが、捕獲するには許可が要るらしい。
困ったものだ・・・




2011年6月13日月曜日

接ぎ木が着いた


家のそばに渋柿の木が有った。

接ぎ木を思いつき、富有柿を接いだところ、見事に着いて新芽が出てきた。

この富有柿の穂は堺市南区でとってきたもの。とても甘くて美味しいので神戸にも増やしたいと思って持ってきた。
赤いテープから10cmくらい下が接いだところ。
養生の為に接ぎ木用テープを先端まで巻いてある。
同じ場所のもう一本の木も着いていた。成功率100%やぁ~~

これから下の写真は、昨年に接いだ富有柿。台木は野生の渋柿。

生長が早いのに驚く。

枝は右と左にほぼ水平に伸ばしている。

左側は堺市から持ってきた穂から生長し、右側は神戸市の穂から生長したもの。既に、実が生っている。
同じ富有柿やけど、味が微妙に違う。

堺市から持て来たほうが美味い。



2011年6月12日日曜日

ウリ坊


今年もウリ坊の季節になった。
我が家のそばには絶えずイノシシの一家がやってくる。
付近を荒らされるので、近づかないように柵を作ったが、低い柵だと容易に飛び越える。

一週間ほど前、柵を飛び越えて入ってきており、それが帰ったと思って柵を高くしたが、どうも、ここに居残ってお産をしたらしい。
今年のウリ坊は2頭。日増しに大きくなる。

山に早く戻ってほしいので柵の一部を開けて、ウリ坊でも歩けるように出口を作ったが、母親はチラッと見ただけで、ここが気に入ったのか帰ろうとしない。


親子3匹で元気に遊んでいる。



2011年6月8日水曜日

東日本大震災 被災地支援活動記録


東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域に3回にわたってボランティア活動に行ったので、まとめて活動報告書にした。
(画像をクリックすると拡大します)
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2011年6月5日日曜日

3回目の被災地支援活動ー3

休憩時間に付近を散策してみた。
(津波は右手から左方向に押し寄せた)





何れの住宅も目を覆いたくなるような状況で、街はゴーストタウンと化している。


午後から床材を撤去し始めたが、20数人のマンパワーは凄い!
2時間チョットで、過半の床下の泥だしを終えた。

午後3時半で作業を打ち切り、集合場所のJAみやぎ亘理山下支所に戻った。
前回(兵庫県社協)から一緒だったメンバーと記念撮影

このうち、左側のお二人(後:Y.Tさん、前:M.Hさん)は一週間現地に居残ってボランティアを続ける予定で来ている。

ボランティアは完全自己完結が要求されるので、食糧などを持参し、テント生活を続けるらしい。お二人の行動には頭が下がる。
熟年パワーは凄い!

その後、我々はバスで天然温泉に行きリフレッシュしてから柴田町の宿舎に向かった。

翌朝の7時に宿舎を発ち、18時ごろに尼崎に戻ったが、なぜ一泊したのか訳が分からない。早朝に出発せず、この日も夕方までボランティア活動をしてから帰るか、どうしても日曜日(5日)に戻りたいのであれば、温泉の後、そのまま(一泊せずに)尼崎に戻る方が良かった。


◆今回の総括
活動時間が一日しかなかったが、全員が一致団結して作業をしたので、単位時間当たりの作業効率は非常に高かった。

また、大阪南部のC短大から10名(男3、女7)の学生が参加していたけど、引率の先生が驚くほどよく働いた。将来は幼児教育の仕事に就くらしいが、今回のボランティア経験がきっと役に立つと思う。


◆運営側の評価
 (日本医療福祉生協連・近畿ボランティアセンター)

◇評価できる点は、
 1.早く到着し、JR「坂元駅」を見学したこと
 2.作業終了後、温泉に行ったこと
 (震災直後から医療活動をしていた点は大いに評価できる)

◇評価できない点は、
 1.連絡、段取りの悪さ
 2.意味もなく一泊したこと
 3.事後のアンケート調査が無かったこと


◇まったく駄目だった点は、
 1.逆切れする現地スタッフの態度の悪さ





2011年6月4日土曜日

3回目の被災地支援活動ー2


宮城県亘理郡山元町のボランティア活動が始まった。

前2回は、現地の災害ボランティアセンターの要望に基づき行動したが、今回は違って、全国医療福祉生協連・近畿ボランティアセンターが仕切っている。山元町にも災害ボラセンはあるが、それとは別行動をとっている模様だ。

どこかの市の社会福祉協議会と違って、地震後、即行動を起こしたらしく、車両も現地に残して、支援活動に使っている。
現地で活躍する尼崎医療生協病院の車両

上の車両などに分乗して坂元地区のボランティアに向かう。
今日の作業内容は床下の泥だしと、庭の泥だしと聞いていたので、全員心の準備はできている。

ところが、現地に到着してみると、先方のニーズが全然違う。
先方は大工さんを待っていたらしい。

床下の泥だしは既に終わっているので、床下に防湿シートを敷き詰めた後、床板を復旧して欲しいという。

持ってきた道具は床板剥がしのバールと泥だし用のスコップなど、材料の防湿シートはもちろん、床板を止める釘すらもない。
有ったとしても、素人集団の手におえる作業ではない!

またしても、連絡の悪さ!、
段取りの悪さ! に振り回される。

やっぱり、素人やぁ~~

我々は、片道十数時間かけて現地に着き、作業時間はたったの五時間半。従って、少しでも効率よく作業をし、成果を挙げたいと思っているのに、医療生協現地スタッフはボランティアの気持など何も理解していない。

おまけに、段取りの悪さを指摘すると、逆切れする有様。素人で何も分からんにもかかわらず、「瞬間湯沸かし器」では話にならない。
こんなヤカラがいると、災害ボランティアのリピーターは増えない。早く現地スタッフを辞めて関西に戻る方が被災地の為になる。

まぁ・・・ ぼやいてばかりいても仕方がないので、午後からの活動を書く。

坂元駅から一つ北側の山下駅近くの民家に行った。


上3枚の航空写真はグーグル アースから転載した。
ここは常磐線よりも東側(海側)の地区で3~4m位の津波が来たところ。

床下の泥だしをしたのは築2年の住宅。
耐震性能はあったらしく、地震では被害がなかったが、津波で天井裏まで海水に浸かった。

所有者は、建物の主要構造部だけ残して、床、壁、天井など内装材の撤去を決断したらしい。
真新しい床を剥ぐのは勿体ないと思ったけど、既にカッター切りが済んでいたので、撤去することにした。

Before

After

素人集団なので、再利用する柱などの養生をせずに(養生材の用意もなかったが)作業に取り掛かったので、敷居はガタガタ、綺麗なヒノキ柱もキズがついた。
まぁ・・・ 1階はスケルトンにしてから、造作をもう一度やり直すつもりだろうけど、築2年の住宅を素人がこのような形で解体して良かったのか、考えさせられる。

床下に溜まった泥の厚さは5~10㎜程度。たったそれだけを除去するために、床材(フローリング+合板+断熱材)を剥がしたが、何とも勿体なかった。
リタイア前は建築設計をしていただけに、真新しい建物をバラすのには胸が痛む。






2011年6月3日金曜日

3回目の被災地支援活動-1


今回の東北被災地支援ボランティアは尼崎医療生協が呼びかけたもの。

午後6時半ごろ仕事を終えてボランティアが集まってくる。

私がメーリングリストで呼びかけて、参加した仲間が4名おり、半月ぶりの再開にヤァヤァと云う感じで出発までの時間をつぶす。
バスは新しく乗り心地も良さそうなので安心した。

(下3枚の航空写真はグーグル アースから転載した)
12時間チョットで目的地の山元町に到着した。

今回は、作業前にJR常磐線「坂元駅」の見学が組み込まれており、我々は食糧調達後、そこに向かった。

坂元駅は津波で駅舎は大破(流失)し、跨線橋とプラットホームは残ったものの、レールまでも流され、見るも無残な姿に変貌していた。



プラットホームから先は南北とも何も残っていない!
線路であった面影すらない!

駅前にあった山元町の案内板。
駅舎の陰にあったので、津波に流されずに済んだものと思われる。


その後、午前中は坂元町の民家、午後は山下駅近く(線路より海側)の民家に向かうが、